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ぶらり尾道探検隊|
6年間に渡って取材した尾道の情報アーカイブです。情報が古いものもありますが、まだまだ使える情報が盛りだくさん。まずは読んでみてね。
2006年9月号.Vol.38
水軍と囲碁とはっさくの島「因島」を巡る旅 その1
気持ちのいい天気が続いて、すっかり秋めいてきた今日この頃。
気持ちがいいのでどこかドライブでも・・・と言うわけで、今回は2006年に新たに尾道に加わった「因島」に行って来ましたよ〜
−因島−。
中世より「村上水軍」の本拠地として栄え、囲碁の島、造船の島、はっさく発祥の島、最近では杜仲茶の島、ロックグループ「ポルノグラフィティ」出身の島など多くの顔を持った魅力あふれる島です。
本州(尾道)側から「しまなみ海道」を渡り、2番目の島になります。車だと約30分。
「因島大橋」を渡るとあっという間に「因島」に到着です。
因島を含めた芸予諸島では「村上水軍」が活躍しました。
「水軍」とは海上を活躍の場とした武装集団のことで、域内を航行する船の警固や無断航行の船に対する海賊行為などを行っていました。
「村上水軍」は南北朝〜戦国時代にかけて活躍し、歴史の表舞台にたびたび登場します。
余談ですが現在でも因島周辺では「村上さん」がとても多いんですよ。
「因島水軍城」には村上水軍の歴史に関する資料が展示されています。
武器・甲冑類や船の模型、戦法の書かれた兵法書、また飲兵衛御用達?の底に穴が開いた盃など、当時の水軍の生活を知ることができます。
武器や甲冑は船での戦に使いやすいよう、いろんな工夫がされていて興味深いです。
別の建物の中では人形による当時の作戦会議?の様子が再現されていて、今にも話し声が聞こえてきそうです。
続いて水軍城のふもとにある、村上水軍の菩提寺「金蓮寺」へ向かいました。
徒歩で約5分。
お寺の裏手の墓地には風化した石が積み重なった塔が何百もあり、村上水軍の規模の大きさを物語っています。
「兵ものどもが夢のあと」、でしょうか。
さて、続いては「囲碁の島」として有名にした立役者「本因坊秀策」の史跡めぐりへ向かってみました。
「本因坊秀策」は文政12年(1829)5月5日に因島で誕生し、幼少期より囲碁と接し、若干7歳の時には三原城主の浅野甲斐守と対局しその棋力を認められたそうです。
9歳になると江戸へ上り、本因坊丈和の門下生となり、11歳で初段。
18歳4段のときに大阪で井上幻庵8段と対戦し、「赤耳の一局(写真)」といわれる名勝負を繰り広げその名が世間にとどろくことになります。
20歳で本因坊の跡目相続をし、6段に昇格、21歳から12年間、将軍の御前試合「お城碁」で19連勝という前人未到の記録を打ち立てました。
しかし文久2年(1862)8月10日、34歳の若さで病気のため急死しました。
秀策は「碁聖」と仰がれ、人間としての人柄もすばらしく、現在でも多くのファンがいます。
その秀策の生家跡の「因島石切神社」には「秀策記念館」があり、直筆の手紙や碁盤や碁石など貴重な資料の展示がされています。(無料。見学には予約が必要です)
境内には記念碑があり、これに触れると碁の腕が半目上がるとも伝えられています。
「秀策記念館」から少し歩いた「地蔵院」には秀策の墓があり、秀策の墓らしく碁石が供えてあります。
最近ではマンガ「ヒカルの碁」の影響で子供たちのお参りも多いのだとか。
ちなみに因島では「碁ランティア」という、因島へ宿泊した人のために、宿まで出張して対戦をするという変わったボランティアが行われています。
お問い合わせは「囲碁のまちづくり推進協議会」または因島の宿泊施設までどうぞ。
まだまだ語りつくせない「因島」。また次の機会にご案内しま〜す。